群れるのは弱さの証拠

川崎の事件から間もない今日、

千葉でまたも卑劣な事件が起きた。

一人を複数で攻撃する、

なんとも卑怯で残忍な行為だ。

なぜ、一対一で相対峙しないのか。


群集心理は、無知ゆえに

重大な間違いを犯しやすい。

戦後70年を迎える今年、

平和の尊厳を唱えながら

改憲の方向へ突き進む国民の

無知・無関心さという群集心理も

とても危うい。

共存と群れは意味が違う。


卑近な話だが、お坊さんも

群れたがる。

僧とは、「サンガ」と言って

集団で修行生活を行う群れなのだが

それは、お互い切磋琢磨し、

時には布薩といって、お互いの自己反省を

確認しあう、規律のとれた群れなのである。


けれど、馴れ合いの

たるんだ群れを好む

坊さんも多い。

それは、単に弱さと依存の現れでしかない。


昨日も本山にお参りに行ったら

受付でヘラヘラ談笑している坊さん連中を見て

ハゲ頭をひっぱたいてやろうかと思った。

その状況、よく分かるんです。

かつては私も、たるんだ本山に勤務して

談笑していた人間だから。

群れると人は堕落する。

どの社会でも同じではないだろうか?

皆さんの会社にも、ヘラヘラ談笑している

「給料どろぼう」がいることだろう。


群れる、つるむ、または肩書きを

持ち出すのは「恐れ」の

証拠でもある。


私はつるむのも群れるのも嫌いで

自由がきくように基本的に

独りで行動している。


たまにお坊さん連中と会う機会があるが

自分の弟子や仲間、子分のような者を

連れ歩く坊さんが実に多い。

そういった方に限って、自分の肩書きや

こういう寺の住職やってますよと、傘に持ち出す。

私は、あなたという一人の人間と

話をするのであって、あなたの肩書きや住職寺なんか

どうでもいいと内心思っているのだが、

それが彼らには分からないらしい。


話をする際には、必ず相手の目を見て話す。

目は口ほどにモノを言う。

瞳をみれば、どんな人間かおおよその判断はつく。

坊さんでも、群れて、体制に依存して生きている人間は

目をみつめると視線が泳ぐので、すぐ分かる。


私は宗派や宗教の違う

様々な団体へ一人で出向き

共に修行し、学ばせて頂くことが多い。

一人で出向くのは勇気がいるし孤独でもある。

日蓮宗以外の宗派や、仏教以外の宗教団体へ出向き、

そこの信者さんから仏教と僧侶の批判を受けることもある。


そこでは、日蓮宗での肩書きは無意味であり

仏教の僧侶というラベルすら通用しない。

私の人間性、宗教性だけが勝負となる。

だからこそ他の仲間と群れない、

依存しない、独尊性が鍛えられる。

この「他流試合」はとても大切で、

異業種でも同じことが言えると思う。


お釈迦様は

「サイの角の如く、独り歩め」と説き、

日蓮聖人様は

「日蓮は、いずれの宗の元祖にもあらず

 末葉にもあらず」

「日蓮一人、南無妙法蓮華経と唱え始めしが・・」

と、独尊性を説かれた。


お互いがお互いを尊重すること、

そのためには「独りを鍛える」ことである。













































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コメント: 5
  • #1

    美光 (日曜日, 26 4月 2015 14:59)

    どんなお仕事も役目も、最終的には「人間性」が肝心だと思う今日この頃…。

    自分と感覚や価値観の違う人を目の当たりにしたときこそ、自分の感覚や価値観を再認識させられています…

    少なくとも、私も受付でヘラヘラ談笑しておられるお坊さん集団が居たら…間違いなく、いい気持ちではありません。
    私の代わりにひっぱたいて頂きたい…(*^^*)


  • #2

    庵主 (日曜日, 26 4月 2015 16:01)

    美光さん、
    自分の感覚を再認識する、
    そのために人と相対峙することは
    必要だなあと常々思っています。
    合わせ鏡とは、よく言ったものですね

    合わせ鏡だから、私もひっぱたかれたりして・・(笑)

  • #3

    美光 (日曜日, 26 4月 2015 19:46)

    あ…

  • #4

    吉川 (水曜日, 29 4月 2015 13:27)

    私も道場破り(笑)好きです。
    群れるのは疲れちゃいました。

  • #5

    庵主 (水曜日, 29 4月 2015 20:38)

    吉川さん
    和して同ぜず、が
    理想ですが、群れは
    本当に疲れますねえ