旧暦に合わせて、身延久遠道場のお会式法要をお勤めしました。
日蓮大聖人様が亡くなられて733回目のご命日法要です。
晩年9ヵ年間を過ごされた身延の地で
お会式をお勤めできる有難さをかみ締めながら
お経を読み、お題目様をお唱えしました。
なぜ、日蓮大聖人様は身延山に籠られたのか?
当時の中心地・鎌倉を遠く離れ、
四方を山で囲まれた、訪ねてくる人も少ない僻地で、
極寒と飢えに苦しみながら、なぜ、身延の地を選ばれたのか?
その素朴な疑問に答える一つの仮説を
某所で見つけたので、ここに記します。
大聖人様を身延山に招いた波木井実長は
幕府の御家人として地頭職の任も受けていました。
実長は権力を持つ幕府と上手に付き合っていくため
鎌倉幕府とのなんらかの密約を結んだ可能性があります。
それは、幕府にとっての厄介者・日蓮大聖人様の
監視と封じ込めを実長に命じたのです。
こうして、幕府と地頭職実長、両者の思惑が合致した結果の
身延入山であったことが想像されるのです。
つまり実長は日蓮聖人を鎌倉より遠く離れさせ、
その行動を監視することと引き換えに
家内の安泰を手に入れたのではないでしょうか。
事実、鎌倉はじめ各方面で布教に対する弾圧は激しく
多くの弟子や信者が法難に遭っていました。
にもかかわらず、日蓮大聖人様は身延山周辺の
他宗の寺を改宗するなど布教を進めていたのですから
大聖人様の止住する身延に対する警戒を厳しくするべきところだと思われるのですが
不思議なことに幕府の追っ手が身延にあったことの記録は見当たらないのです。
さらにいえば、「入山以後身延を出ることはしない」と大聖人様は言われているが、
これは、実長によってしっかり監視され幕府に報告がなされていたことを
大聖人様は充分知っていたからこその発言であると思われます。
幕府を油断させ、壇信徒に対する弾圧の手を
これ以上激しくさせないための方便であったのです。
日蓮大聖人様が「身延を決して出ない」と言ったのは
言葉の裏に幕府を油断させ、迫害の手をゆるめるためであったわけで、
身延の生活に満足していないことは、身延において書かれた手紙や著述が物語っています。
冬の厳しさは想像を超え、山が深いために昼にも太陽の出る時間が少なく、
聞こえるのは鳥の声だけ、訪れる人もほとんどいないとその辛さを綴った手紙は多くあります。
供物を送ってくれた壇信徒に対する礼状に、感謝の意とともに書かれた内容です。
あれほど法華経に命をかけた日蓮御聖人が
法華経を捨て隠居生活と等しい毎日を楽しく過ごしていたはずはなく、
その心は、いてもたってもいられない法華経の情熱であふれていたことでしょう。
身延山入山まもなくの頃からの体調不良。
厳しい冬を迎えるたびに日蓮聖人の身体は下痢を繰り返し、
回復してもまた再発し、病んでいる時間は長くなっていきました。
いよいよと言う状態になって、常陸の国へ湯治に行くことになり、
身延入山以来初めて身延を出ることになるのです。
実長が本当に熱心な信徒であったなら、
このような状態になるまでに湯治を勧めるべきところです。
しかし、身延から出すわけにはいかない事情がそこにあったのです。
ちなみに、身延周辺にはいくらでも湯治の湯があったはずなのに
なぜ、唐突に遠方の常陸の国まで湯治に向かわれたのか?
それは常陸の湯治場所が実長の所領地であった事と
日蓮大聖人様は以前にも何度か実長と常陸の湯に
行ったことがある、という説もあるのです。
それを裏付けるように、常陸の湯の跡地近くには
実長の身内のお墓が今も残されているというのです。
この仮説を額面通りに受け取ると、全てに合点がいくのです。
歴史はいつの時代も捏造され、本当の姿は見つけにくいものです。
この「実長と幕府の密約による身延軟禁」を史実とみる時
日蓮大聖人様の心境を想像すると胸が痛みます。
それを承知の上で、次なる布教のために
ご自身が苦境の生活を過ごされ、そのお陰で
700年経った今もお題目様を私たちは
当たり前に唱えることができるのです。
そのご恩に報いる気持ちを忘れないよう
今日のお会式法要をお勤めしました。
コメントをお書きください