裸一貫

早朝の昇仙峡にて瞑想する
早朝の昇仙峡にて瞑想する

昨日、一昨日と嬉しいお客さんが

道場にいらっしゃいました。

 

一昨日は、日蓮宗の尼僧さま4名。

七面山登詣の帰りにお立ち寄りになり

現状の仏教界を憂いながらも、様々な

お話に花が咲きました。

 

皆さん、きれいに剃髪されており

それだけでもご出家の姿として有難い。

 

最近の風潮として、尼僧さんでも有髪が多くなり

パーマネントやロングヘア!に袈裟衣という

いでたちも普通に見かけるようになりました。

現代版布教として、それもありなのかもしれませんが

姿は、心を現すもの。

 

尼僧の別名を落飾と呼ぶように

それ相応の覚悟と道心があって

僧侶になったはずです。

昨今の風潮に違和感を感じるのは

私だけでしょうか?

 

昨日は、遠方より

ご信者さん御夫妻がお参り

下さいました。

いつも慈愛の目で多くの方々の

お手助けをなさり、私自身も

折に触れてお世話になった方で

久しぶりの再会を喜び合いました。

 

尼僧さま方やご信者さんと語り合い

嬉しい事は、「肩書きや地位」を笠に着て

人を差別したり、物事を判断していない

という姿勢です。


人や物の本質を見極める、

これこそが信仰をもつ醍醐味であり

その喜びなくしては、信仰生活に馬齢を

重ねるだけです。

 

私は、いつもこう思っています。

 

世間は、金や地位、肩書きや名誉、

損得勘定、上下関係で人間を

価値判断しています。

 

もし、明日、大災害が起こり

住居も家族も職場も壊滅して

なにも頼る価値がなくなり、

文字通り裸一貫の身になった時。

 

そこでは、総理大臣もホームレスも

一緒の土俵で生きていくのです。

食料も無ければ、いくら金があっても

ただの紙切れでしかない。

ましてや、世間の肩書きや

利益で繋がっていた人脈など

何の価値もなくなるのです。

 

私は裸一貫でも堂々とあり続けたい。

それでも人様から愛され、人様の

役に立てる人間でありたい。

真価が問われる時に、真っ当な人間でありたい。

 

そんな事を再認識した二日間でした。